館長からのメッセージ
38年目の出会い
演劇とは全く無縁な人生だった… 38歳までは。
目黒の中学時代、女子しかいない演劇部が区大会に出るという時に僕が駆り出された事があったんだけど、ちょっと評判になってね。その時、演劇部にいたのが初恋の人だった。
38歳の時、中学の同期会で彼女に再会した。彼女は小学校の先生になっていて、小中学校の先生達と演劇サークル「劇団ブランコ」に所属していた。彼女からやらないかと誘いを受けて…ちょっと酔っ払っていたし、初恋の人だし、まあ一回顔を出そうかと。
自分とは異質な世界 - 初公演
参加した劇団ブランコは、もう自分とは異質な世界…ほとんどが学校の先生で、不真面目な人生を送っていた僕には居心地良くなかった。それでも小中学校の演劇部指導者の全国大会があって、その公演に出る事になった。
その公演は大橋泰彦作「マインド」、公演場所は教室だった。体験した事の無い緊張感は少し心地良かったけど、一回やったからもういいやって思った。
その劇団ブランコが同じ「マインド」で公演をする事になった。場所は岩間市民ホール。出演を渋る僕だったが、「とにかく同じ役なんだから、今回だけ」などと懇願され、2回目の舞台に。
しかしこれが教室芝居とは大違いで、照明も音響も本格的。緞帳が開いた時の感激と言ったら、それは鳥肌立つような気分だった。
その後の劇団ブランコは、岩間市民ホールでの年一回公演が定着して、参加者も先生以外の社会人、学生等が増えていった。ゴジラ、バンクバンレッスン、赤のソリスト、と名作の上演は横浜でも評判になっていった。
僕?これがひどい劇団員で…。とにかく普段の稽古は行かない、公演が決まると半年振りぐらいに顔を出す。早く稽古終わらせて飲みに行くどころか、昼飯からビール飲んだりして。
それでも40歳ぐらいのアマチュアの役者、いないんだよ。お父さん、支店長、部長etc.いい役ばかりもらって。でも公演終わると反省会も顔出さず、次回の公演まで雲隠れ。
いいじゃない、芝居!
しかし、演劇の神様はいたずらだ。転機は1999年世紀末の2月にやってきた。劇団ブランコ第8回公演「レンタル家族」だ。例によって半年振りに劇団に戻った僕は、おじいさん役。違っていたのは公演場所。岩間市民ホールを離れ、横浜相鉄本多劇場。そう、小劇場デビューだ。自分の中で何かのスイッチが入った。いいじゃない、芝居!
それ以前とそれ以降、僕の演劇人生が変わった。受身だったのが、積極的に劇団に関わるようになった。反省会に初めて出たし、その後の脚本研究、月2回の稽古にも真面目に出たりして。
2001年8月、相鉄本多劇場2回目の公演は横内謙介作「夜曲」。
実は私生活で色々あって、この頃は少し投げやりになっていた時期で、この公演が終わったら、演劇はおろか東京からも離れて生活をしようと密かに決意していた。だからもう最後と思って、衣装は松竹衣装から殿様、鎧、お姫様等、NHK大河ドラマと同じ物借りてきたりして。
公演は大成功!ある回は満員札止め、30人くらいのお客様が入れず、帰ってしまわれたりしたくらい。
さあ、東京を離れよう、違う人生を歩もうと思っていた。
しかし公演の打ち上げで、十数年忘れていた感情が僕の心の奥を鷲?みにした…。その感情を封印する為、東京と決別する前に、あることをしようと決意した。
それは初めて脚本を書き、上演する事。
初脚本から現在へ
その脚本は2001年11月初稿完成。そして翌年5月、学芸大学「千本桜ホール」で上演。それが「ゆっくり静かに出て行って!」だ。
公演は思いもよらぬ大好評で、収録したビデオは口コミで100本も配布された。そしてその後、この「ゆっくり静かに出て行って!」は新風舎から出版までされた。
これも運命なのか、演劇から足を洗う、東京を離れる、などと思う間も無くその年の8月には相鉄本多劇場3回目の公演「寸前家族」。その芝居は県立戸塚高校定時制に出張公演もした。もちろんギャラ貰って。
そして錯誤は続き、2003年6月には何の縁かこの「川崎H&Bシアター」をオープン。柿落し公演は追加公演までする盛況だった。
色々あったが、客演もこなし、多いときは年5本の公演。もちろん芝居や劇場経営で喰えるはずもなく、死ぬ程働いて演劇に突っ込む日々。
しかし更に錯誤は続く。今年10月「ラゾーナ川崎プラザソル」の副館長に就任。
演劇の神様は、僕に何をさせたいんだろう。
2006年 11月 別府 寛隆
